BIG RIVER

2004/10/23 「BIG RIVER」青山劇場

ブロードウェイ・ミュージカル「BIG RIVER」を見に行きました。

その昔、フジテレビで「世界名作劇場」というアニメの番組を放送していたことがありました。日曜日の午後7時30分から始まるこの番組、とっても好きだったんです。アルプスの少女ハイジフランダースの犬母をたずねて三千里あらいぐまラスカルペリーヌ物語赤毛のアンふしぎな島のフローネ南の虹のルーシー小公女セーラ名犬ラッシー家なき子レミ(決して、同情するなら金をくれ!なんていいません。)・・・良質のアニメだったよなぁと懐かしむその中に、トム・ソーヤーの冒険がありました。うちでは家族で世界名作劇場見ていて、上質の物語だったんだよなぁと今になって思うのです。

話がそれましたが、正直言いましょう・・・。「ハックルベリー・フィンの冒険」の本があることは知っていましたが、読んだ記憶はありません。読んだとしても記憶にありませんでした。それほどに私の中では、トム・ソーヤーの方が印象深かったのです。そんな不届き者ではありますが、「ハックルベリー・フィンの冒険」を舞台化した「ビッグ・リバー」が来日するということで、千秋楽の前日、滑り込みで青山劇場へ足を運びました。

プログラムによれば、「ビッグ・リバー」は、1985年にブロードウェイで舞台化され、当時トニー賞で7部門の栄誉に輝いた作品であります。今回はデフ・ウェスト・シアターによって制作され、2003年の夏にブロードウェイで上演された作品がそのまま日本に来たようです。ブロードウェイ作品はオン、オフ問わず来日しますが、ブロードウェイキャストではないメンバーで来ることが多いことから、今回の作品にはとても期待するものがありました。やっぱりお金払うんだから、オリジナルキャストで見たいのが小市民の気持ちなのであります。

デフ・ウェスト・シアターというのは、これまたプログラムから転載しますと、

「デフ・ウェスト・シアター(以下DWT)は、ロサンジェルスに住むろう者と難聴者の文化生活を豊かにすることを目的に、1991年に設立された、プロフェッショナルの手話劇団だ」(「ビッグ・リバー公式プログラムより転載)
とあります。そうなんです、この作品はろう者(プログラムに記載されている表記のままに表記します。)と難聴者と、健聴者が一緒になって作り上げている舞台なのです。

ストーリーは非常に有名な作品なので(読んでいないくせに!という声が聞こえる・・・)、きっとこのページを読んでくださっている方は小さい頃に読んだことがあるだろうと思うので割愛させてください。ダグラス未亡人とその姉のワトソンの養子となったハックが窮屈な生活から逃げ出し、お金目当てに近づいた父からも逃げ出し、家を飛び出す。あたかもハックは死んだと思い込ませて。そのときに出会った黒人奴隷のジムと自由を求めて二人でミシシッピ川を下る旅に出る。その先々で出会う人との中で、差別と、自由を求める心、愛とを描いた作品です。ビッグ・リバーでは、この作品の作者マーク・トウェインが物語を語るというスタイルで展開されました。

セットは、「ハックルベリー・フィンの冒険」の本をモチーフに、そこから飛び出てくるハックと仲間たちというイメージでした。同じBWMでも、ウェスト・サイド・ストーリーの時にめちゃくちゃちゃちかったセットから比べると、奥行きと左右をうまく使って、いかだとか壁とかいろんなものを表現していましたね。

海外ミュージカルを日本で上演するときに、ほとんど必ず字幕が舞台両サイドにつきますが、この作品では字幕って必要ないと思いました。いや、もちろんあった方がありがたいけど、目で追いかけると微妙にずれてうっとおしい。だから途中からあまり字幕を見ませんでした。それでも楽しめたのは、私が英語を理解できるっていうのではなく、ASL(アメリカン・サイン・ランゲージ)のおかげでした。この作品は、音声としての言葉と、手話という言葉とが同時進行で展開された作品でした。日本でも手話は、物事の意味から連想させるようなものが多いし(例えば「青い」は髭剃りあとの青々しさから来ている。)、そうでないものももちろんあるけれど、私が見た印象では、この舞台で展開されているASLはかなりこなれていて、役者の台詞、息遣い、表情、アクションとすべてを含めた中の一つのツール、言葉になっていたように感じたのでした。

そのツールと共に、ろう者と難聴者には声の吹き替えがありました。例えばハック役には作者のマーク・トウエイン役のダニエルが、というように。また1人が複数の役者の声を担当していました。タイミングがあるために、吹き替え役の方も舞台上に出ているのですが、袖そばで客席に背を向けていたり、セットの上に立っていたり、その場にいるアンサンブルの中で溶け込んでいたりと、実に自然にそこにいました。私も最初に見たときには「なんであの人がいるんだろう?」と思いましたけど、最後の方になると全然気にならない。それくらい声とろう者(難聴者)とのタイミングがあっていて、あたかもろう者(難聴者)が話しているかのように思えたのでした。とくに一番多く出てくるハック役のタイロンと、ダニエルの声がホントにぴったりで、違和感がなく、むしろ作者が語るからこそ、ハックを通して言いたかったことが近く感じたといっても過言ではありません。
そもそもこういうアイデアがすごい!。どうしてこういうのがなかったんだろう?と目から鱗でした。それとハックのお父さんも、最初鏡に映る影と本人、という設定だけかと思ったら、鏡から出てきたもう1人も、お父さんの二枚舌みたいなイメージで上手く使われていたし、随所に不利を有利に変える趣向が施されていました。

これらから舞台を通して思ったのは、結局、一言でいえば、声は十分条件だけど、必要条件ではないということでしょうか。昔パントマイムを見に行って感動したことがありますが、一つのツールであるだけで、決して固有の音に頼るものではなく、その場に立っている役者さんの全感覚フルに使って思いを伝えること・・・それが「伝える」ことで、言葉は単なるツールなんだと。それまでは、ある俳優の個人の声と動きともろもろがある前提で、複数人が舞台を作り上げているのが当たり前だと思っていました。私自身が「1人1人の声が違うから、意味としての言葉を聞き分け、感情を見分けている。見分けてキャラクターを理解している。」と思っていたのだけど、実はそうじゃないんじゃないんですね。演技する上で「音」の存在は非常に大切であるけど、音がなくては存在しない!という必要条件ではないのだと思ったんです。たとえが今ひとつで恐縮ですが「目は口ほどに物を言い」言葉以上に伝わるものって確かにあるんですよね。言葉を自由に発していかようにも伝えられる自分が、自由なようですごく不自由な気がしましたねぇ。

物語自体は1885年に出版されたと聞くので、まだ当時は黒人奴隷の問題が生々しい時代だったと思われるのに、その時代に例えばハックが黒人奴隷のジムに謝るという場面を描いていることに、非常に驚きました。そしてハックが「公爵」たちをだます場面でもまた黒人奴隷を解放する状況になるわけですが、色じゃなくて「人間」なんだというテーマが織り込まれている、そのことも驚きでした。
自由ではあるが差別がないわけではない現在のアメリカという国の本音と「こうあるべき」建前。ジレンマをどう人間としてクリアしていくか。その良心。マーク・トウェインが「ハックルベリー・フィンの冒険」を描いた時代から、あまり変わっていないような気がしました。

個人的には、ジムが自分の娘のしょう紅熱がやっと治ったのに、耳が聞こえなくなっていた、というエピソードが、泣けて泣けて仕方なかったです。黒人奴隷だから娘には満足に薬も与えてやれず、きちんと治してあげることができなかった。だのに娘を何度も殴ってしまったという親としての慟哭が、無性に歯がゆかったです。何で人間はクラスを作りたがるんでしょうねぇ。着ている服を脱げばみんな裸なのに。私は無宗教ですけど、どうして神という名の下にいる人たちが戦争したり差別したりするのがなくならないんでしょうか。不思議ですねぇ。

なんて考えてしまった作品でもありますが、舞台上のマークトウェインが言っていたように意味とか訳とか考えずに、単純に楽しめる作品でした。偉大なる娯楽性。開演前、後ろに並んでいた外国人の子供が楽しそうに歌を歌っていたのを見て、そう思いました。やっぱりブロードウェイ・ミュージカルなんですよね。

PS ハックと友達になりたいけれど、ジムにはそばにいて欲しいと思うかつをでした。

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