赤鬼〜タイ・バージョン〜

赤鬼

シアターコクーンで野田地図の「赤鬼」が再演されている。8月下旬から始まったロンドンバージョン、9月から始まったタイ・バージョン、10月から始まった日本バージョンと同じ作品を3つの違ったバージョンで上演する試みだ。もともと「赤鬼」は日本で上演された後、海外で上演された経緯があり、当然のことながら海外で見ることも、日本公演も見られなかったので、なんとか都合をつけてタイ・バージョンと日本バージョン(今日)を見てきた。


赤鬼とは(あらすじ、公式ホームページから抜粋引用)

小さな島の漁村に、ある日突然、目も肌の色も違う、言葉の通じない人間が漂着する。「外国人」という概念すらないその社会では、彼は「赤鬼」と呼ばれる異形の者扱い。みなが恐れおののく中、村ではハズレ者の、ちょっと頭の弱そうなとんび、「あの女」としか呼ばれないその妹、詐欺師まがいのお調子者・水銀の3人だけは、「赤鬼」とコミュニケーションを取り始めるが……。

ちなみに「赤鬼」は、解散後全劇作(野田秀樹著)に編集されているので、シナリオを読みたい方はお買い求めください(ちなみに劇場ではそれ以外の脚本集も販売されていました。)

私が観劇したタイ・バージョンと日本バージョンに限って比較する。まず舞台や客席の作りもさることながら出演した人数が大きく違った。日本バージョンが赤鬼役の英国人ヨハネス・フラッシュバーガー(敬称略)と野田(とんび)、大倉幸二(水銀)(ナイロン100℃)、小西真奈美(あの女)の4人。対するタイ・バージョンは総勢13名で舞台に出演していた。タイの方は、メインとなる4人以外は村の衆という分け方だったために、わかりやすく人数で攻める迫力があった。タイ版の赤鬼は野田が担当。日本バージョンは赤鬼以外の3人が瞬間に民衆になり、あの女やとんびや水銀になりと変化するのでより集中力と瞬発力を見る方も要する。タイ・バージョンは原語上演で日本語同時通訳のイヤホンガイドが無料で貸し出されていた。(家に帰って脚本を読みながら振り返ったら、ほとんど脚本の中の台詞を話していて口とあわせるためのカットがなかったように記憶している。読み手がすごい!)

そして舞台。タイ版は真っ白な四角いマット(のようなもの)を観客は四角に取り囲み、角の四方から人が出入りするような配置。太鼓と瓶が置かれていて、非常にシンプルであった。衣装は舞台の色に合わせたように真っ白。その中で赤鬼だけが黒に各種電線を張り巡らしたような毛糸をくっつけたようなもじゃもじゃした感じに身を包み、頭は「ドリフの大爆笑」(ご存知ないはDVDを参照)で爆弾が爆発した時の志村けん(敬称略)のような爆発頭に、右目に白いコンタクトレンズを入れている、非常にグロテスクな赤鬼だった。

日本版はひょうたんをかたどった舞台(これが非常に狭く感じる)で、「島国日本」の印象を受ける。そのひょうたんの周りには色とりどりの瓶。近くによってチェックすればよかったが、舞台の高さと瓶の高さの差が目立っていた気がして、後半問題となる海の向こうから流れてくる瓶との差異がはっきりする。もしかして日本のビール瓶とかじゃないか?。そこで投網のような網とついたてが何度も出てきて、一瞬にして洞窟になり、長老の家にもなる。ロープを巻く糸巻きは椅子や机にも早変わりした。衣装は着ている素材はカジュアルでジャージだったりメッシュシャツだったりするんだけど、着こなし方がどこか防人的というか、そんな印象を持った。(特に水銀の垂のような部分)

先にあらすじを引用したように、この話はある小さな島に突然、言葉も風体も全く異質のソトノモノが流れ着いたことに始まる。言葉も通じず恐怖感を与えたそのソトノモノは人間でなければ鬼だと流布され、真っ赤な顔や風体をしていたことから「赤鬼」と呼ばれるようになる。(泣いた赤鬼の童話にも重ねあわされる。)そしてその島で最初に赤鬼と接した「あの女」ももともとはよそから来て、この島では受け入れられていなかった女だった。
言葉が理解されないことで起こる行き違いや無理解から、赤鬼は島の人たちを巻き込んだり、逆だったりして、次第に赤鬼は追い込まれていく。あの女と赤鬼が全く言葉も通じなかったところから、言葉がわかるようになり気持ちを理解するようになるのだけど、そうなると今度はあの女も赤鬼ではないかという嫌疑がかかり、処刑宣告されてしまう。あの女を好きな、嘘つき狼青少年の水銀は、あの女の兄のとんびと一緒にあの女と赤鬼を助け、あの海の向こうを目指して船を出す。食料もつき、嵐に巻き込まれた後、奇跡的に助かった中に赤鬼はいなかった。赤鬼は海の上で死に、その肉は「ふかひれ」だと嘘をついて、3人は朦朧とした中で食していたのだ。

赤鬼が外国人で、もちろん日本語を使わない設定から、コミュニケーションが取れない島の人たちとソトノモノとの摩擦や異質感がわかりやすく読み取れる。その中で、あの女が言葉だけを頼りにするのではなく、体全体や「わかろうという研ぎ澄ました感覚」から、赤鬼と通じ合う様子がとても重い。日本版では異質なものへの抵抗の部分を強く感じた。最後に水銀が、あの女が容易に理解できる自分たちの言葉によって赤鬼の肉をふかひれと偽り、それを食べさせ、生きながらえてしまったことは、あの女の慟哭へとつながり言葉が無力で実に頼りないものであると印象付ける。鬼が人を食うのではなく、人が鬼を食うのだと、目に見えるものよりも見えない恐怖におびえ、言葉を持った畜生なんだと言わんとしているようだ。

野田さんの作品ではいつも複雑さの中に、一点のメッセージをがつんともらう私なのだけど、今回2バージョンを見比べてみて、不思議なことに役者が日本語で生で話した日本バージョンよりも、ある意味棒読みな本読みせりふを片耳で聞いていたタイバージョンの方が、言葉に対する思いがずしんと伝わった。人数的に敵対関係がわかりやすかったこともあるが、言葉がわからない中でタイ人の役者さんたちがまさにパフォーマンスしていることを一点ももらさないように見ていた「あの女」だったと思うからだ。タイ人の役者さんたちも、変に気取っていないというか、無心さというか、ひたむきさがあったし、感情がストレートに伝わってきた。そして「あの女」の慟哭が、淡々と耳に流れ込む台詞と同調して、虚しさがこみ上げてきたのだ。言葉は道具であるが、暴力にもなり、無力であると。タイ版は無垢な白の印象がそれに輪をかける。言葉って本当に難しい。

日本版の役者さんの印象。
赤鬼のヨハネスさんは、ひげ(?)がもじゃもじゃのサンタさんが、赤鬼の姿で出ています〜♪って感じ。キュートでした。体格がいいので、やせっぽちの島の人と人種が違うってのが明確。あの女と通じ合うところなんか、目がうるうるしていて、ぐっと来てしまいました。最後赤鬼は英語を話しているんですけど、スローな英語だったので若干わかったかなと(笑)

野田さんは、赤鬼ととんび両方見て、まぁ本当に縦横無尽というかすごい人です。体の動きが尋常じゃない。この人が出ている作品は見逃したくないですね。

大倉さんは、ナイロンの時にちょっと大芝居な(あるいは大味な)印象だったんですが、そこらへんを上手く使いながら配役していたなと。ほら吹き青年であるんだけど、あの女を愛しちゃっているシャイなところとかよかったです。

小西さんは、叫ぶシーンがあるためか喉を痛めつつあるなと。私はつかさんの芝居で一度見たことがありますが、勢いのある人です。非常に可愛いので(つうか私は好きなので)野田作品でのヒロイン性はかなりあると思いますが、やや壊れたところが少ないかなという気がしました。テレビの二次元ではなくて、舞台の三次元、四次元の部分まで飛び出して欲しいなと。これが終わるころにはもっとブレイクしてくれるといいなぁと期待しています。

やっぱりロンドンバージョンも見ておくべきだったか!今更ながら後悔。ちなみに今日はビデオ撮りしていたので、いずれNHKで放送されると思います。

観劇日 2004/10/13 
劇 場 シアター・コクーン