映画「ドコニモイケナイ」

ドコニモイケナイ 2012年12月11日 ユーロスペース

ドキュメンタリー映画は正直どう観たらいいんだろう。どういう見方が正しいんだろうと悩む。自分に照らし合わせるっていうのはおこがましいし、かといって心が揺れないというのは嘘になる。

この映画は2001年に19歳で佐賀から上京して渋谷でストリートミュージシャンをしていた女の子が統合失調症を患い佐賀に戻り、それから9年後の現在(2010年)を映したドキュメンタリー。統合失調症って、映画でそれを見せるということ自体かなりハードだと思うんだけど、どういうものを観せたいのか、単純な興味が湧いた。

19歳で佐賀から上京して渋谷駅でアカペラを歌いながら、必死に人との繋がりを求めて行く主人公は、やがて芸能事務所の社長にスカウトされるものの2週間で解雇(本人は認めていないようだが)され、佐賀に戻ることを迫られる。ストリートミュージシャンだった時のつてで1度絵を描いてあげた女性の家に一時的に居候することになるのだが、やがて幻覚症状を伴う統合失調症を患い、強制入院、兄に連れられ故郷の佐賀に戻る。佐賀に戻ってからも入退院を繰り返しつつも、グループホームで軽作業をしながら母親と住みながら生活をしているのだが・・・。

監督の映画学校の卒業制作のために渋谷でカメラを回し始めたのがきっかけで知り合ったらしいが、2001年の渋谷はなんだかすでに懐かしい。やぼったい感じもしつつ、それでも少し熱があったように思えたのは、映画の帰りに見た今の渋谷駅が訴えるような歌声もなく、寒々しかったせいかもしれない。

彼女の「組織」であり、彼女が歌を聞いてもらったり、彼女が絵を描いたりした人に入ってもらい拡げていった「てらこや」が一つのポイントになっていた。監督の何人くらいいるの?という問に対して「だいたい205人くらい」と、5という端数まで答えているところに、ちょっとぴりっとした微妙な感じを覚えた。

だいたい、ストリートってことはそもそも通りすがりなのに、どうしてそこまで結びつきを求めるのだろうか。そして、歌っている姿に強すぎるくらいのアグレッシブさがあって、それは痛みのように思えた。そう、痛い。観てて辛いからもういいよって思ったことも事実。

おそらく騙されたんだと私は思うが、彼女が芸能事務所での仕事に夢敗れてまたストリートに戻ってきた時に、すでに眼には陰りが見え始めているのだ。そして発症して佐賀に戻る時に振り返ってスタッフに手を振る時のとろんとした眼。明らかに薬の副作用によって更に彼女が病んで行くにつれて「棘が取れて憑き物が落ちたようになっていく、綺麗になっていく・・・」と評する意見もあると聞いたが、私はその場面を観たら時に表情の美しさではなくてどうしようもない絶望感しか持てなかった。彼女はこんなになるために渋谷に出てきたんじゃないだろうっていうね。生きることの辛さを何故「諦める」という言葉ではなく「方向転換」にしなかったんだろうっていう人間の弱さが痛かったのかもしれない。(ここのイタいっていうのはどうしようもない的な使い方のイタいではなくて、感覚を伴う痛さの意味です。)

よく考えてみると、書店で平積みになっているポジティブになるハウトゥ本がいつになっても新しく発行されるのは、思ったような人間になるということの困難さの裏返しではないのかな。ダイエット本がいつまでたっても打ち止めにならないのは、誰にも当てはまる決定打がないからでしょう?どうして弱くいる自分を認めてあげないんだろう・・・そうさせない、弱くいる事はいい事ではないという風潮と言ってしまっていいのだろうか。人間、そんなに強くいることって意味があるのか?そんな事も頭を再びよぎった。

映画は、強くいようとする、希望を持ち続けるってことを描くことで、希望を持たせたかった(観客にも彼女のにも)のかもしれないが、その象徴となったような場面で複雑な気持ちになった。本当に正直に言ってしまえば、佐賀に戻ってから「てらこや」の看板をもって博多で歌っている場面は本当に彼女自身が彼女の意思で「歌おう」としたのだろうか?あの場面はカメラの位置に違和感を持ったので演出したんじゃないかと思っていたしまった。だって、そんなエモーションはそれまで感じられなかったんだけどな。むしろ更に夢破れた感の方が強かったように思えた。そうするとどういう結末が良かったんだろうね?

また彼女を一時的に引き受ける「てらこや」メンバーも正直私には異質に見えた。一回絵を描いてもらって話しただけの人を居候させるような不用心なことは一般的な感覚からしたら「え?」って思うけど、それが違和感のない街なんだろうか・・・とすら思う街が渋谷?とはいえ「てらこや」の名簿があったから、彼女についてのコメントが取れてドキュメンタリーたり得るものとなったのだと思うのだけど。そんなわけでグダグダと消化しきれない思いは、きっと自分に共感できる糸口が見つからないからなのか未だにわからない。

映画の後にトークショーもあって聞いてきた。それを元に映画を振り返ってみると、短期間に夢を見て破れてしまう若者の思考行動と彼女の元々の性格(気質?)とをリンクする事の賛否はあるが、トークショーでコメンテーターが「才能があろうがなかろうがやりたい、もう一回やりたいという気持ちが残ることが大事ではないか」という若者に対しての目線があるなら「短絡的に考えない事の大切さ」の振りはあった方が良かったと思った。果たして9年後に、登場の彼女を支えていた「てらこや」は彼女の支えになったのか、難しいと思った。

それと一度入ると1年以上とか長いスパンでの入退院の話や、実は二ヶ月しか渋谷にいなかった話もあったが、作品中に折り込んでも良かったのではないかな。てらこやと9年後のつながりはどうだったのか気になるところだった。
直接的な繋がりは生めないとは思うが、その時に「関わった人がいた」という事実が彼女の生きる支えになればいいのに、と思っている。若い時には「今」しかないように思えるけど、案外「過去」が支えるになることもあるのだから。

監督 島田 隆一
配給 JyaJya Films 公式HP