飛鳥夕映え−蘇我入鹿−

月組東京公演「飛鳥夕映え−蘇我入鹿−」東京宝塚劇場

今日は月組「飛鳥夕映え−蘇我入鹿−」を見てきました。
この公演は役替わりがあり、今日はかしげ(貴城)鎌足、あさこ(瀬奈)軽皇子、ゆうひ(大空)石川麻呂。この公演でさえちゃん(彩輝)は大劇場お披露目、えみくらちゃん(映美)は退団公演となります。

まず感想を書く前に「詳説日本史(新版)」(山川出版社から蘇我入鹿の記載部分を転載します。

日本では、馬子のあと蘇我蝦夷が大臣となり、皇極天皇の時には、蝦夷の子入鹿がみずからの手に権力を集中しようとし、有力な皇位継承者の1人であった山背大兄王をおそって自殺させた。
なんて紹介がなされています。ぱっと見、悪人ですよ(笑)ところがこの作品では人間・入鹿に焦点を当てています。入鹿の行動は実は鎌足に裏で糸引きされた結果で、教科書で描かれている入鹿は勝者の側からの記述であり、そうではない側から捉えた意欲作とも言えます。・・・が、ですね、これは演出の問題なのか、生徒の問題なのか、作者の問題なのか、今の時点では明確に整理できませんが、どうも何か「ヘン」な感じが否めない作品なんです。物語的に。

まず感じたのが、もしかして柴田先生は元々「お披露目で上演する」ために書いたものではない、ということ。まだ見ていない人もいるかもしれないのでネタバレ御免で言いますと、入鹿は仲間全員に裏切られ(瑪瑙と父とお付の者は別)最後には殺されてしまうという展開なのです。それも

「まだ、遣り残したことがある・・・(絶命)」

ですよ。あの、これ退団公演じゃないですから。それとも誰かの退団公演用に書いていた作品が間違ってお披露目で使われてしまったとか!?ありえね〜〜〜ともいえないのが今の宝塚だったりする怖さ。多分さえちゃんファンも、その他の月組ファンの皆さんも「いいんかい?これで」という思いが、観客の冷たい空気に反映されているんじゃないかと思いました。本当にしら〜〜〜っとした感じがなんともいえなく寂しかったです。

仮にお披露目用で書き直した作品だった、としても、「花の業平」時の業平と基経ほど拮抗した対決が描かれていない割には、敵役の鎌足についていろいろ書いてあるので、まるで「大化の改新物語−朝焼の鎌足−」みたいな感じなんですよね。見ていて柴田先生は入鹿を「権力の側についた、業平のような人間だった」というイメージで書いているような気がするのですが、艶っぽさに欠けるし、エピソードから人物の魅力を読み取れないんです。だから入鹿いったい何やっているんだ?とも思うし、ある意味瑪瑙との二人芝居でした。これじゃ、主役双方が気の毒でしょう。

演出する大野先生も、あまりにも人の動かし方がバウホールクラスで(苦笑)これじゃ新公やる生徒も気の毒です。セットはがんがん使っているけど人の動きが単調で、見ていて飽きました。音楽も踊りも。高句麗だかの要人と話しているときに日本語なのに、るいちゃん達スパイさんは韓国語で「〜〜〜ハムニダ〜」と話すってギャグ?(苦笑)
出てきたと思ったら踊るだけ、あとは2〜3人の芝居が延々と続く・・・これは結構きついでしょう。特に下級生ファン。
役替わりの全てを見ていない点があり、全部見てから言えと言う人もいることを承知で言いますと、はっきり言って役替わりは作品的には意味がない。ただ、同期3人揃えていることで集客的には意義があるのではないかと。

哀しいけど、柴田先生も演出しなくなってからやや厳しいものはあるかもしれません。と同時に、柴田先生の骨太な作品をバンっとした張をもって演じることができる〜言い換えれば「被ける」〜生徒も少なくなったんだなという気持ちです。これがもしノルさんだったらとか、タータンだったらとか脳内変換しそうになりましたもの。ある意味行間を埋められるようでないと難しいように思いました。今日見たメインの生徒さんたちは、とっても線が細いんですよね。

そして、宙組でそうであるように、組長クラスの上級生が「今までだったら若手二番手娘役の出番だろ?」な役を配役されているのはどうなんでしょうか。やはり学年があがって、それなりに役割とか位置取りがあるでしょうからね。お局様がお局様の役割があるように。(→あぁやや中間管理職)正直なところ若い子を使う方が客は見ていて楽しいです。ウエシンは「入れ替えがあるから宝塚は90年続いた」とか生徒を消耗品のように表現する割には、こういうの不思議な感じ。少なくとも主役と仮初めでも愛し合うのなら・・・。

個人的にはまた後日。取り急ぎの即感想です。

観劇日 2004年09月30日(木)夜公演 S席