エレファントヴァニッシュ(再演)

世田谷パブリックシアターにいわば凱旋再演した世田谷パブリックシアター+コンプリシテ(ロンドン)との共同制作「エレファント・バニッシュ」である。初演に参加していた堺雅人さんが出演しておらず、瑞木健太郎さん(演劇集団円所属)がパン屋襲撃の主人公を演じた。その他は同じキャストである。

一年前の記憶をたどりながら再演プログラムを読む。初演の際に東京からロンドンへ移ってそこで若干演出が変わったらしい。アフタートークでのテクニカルスタッフの話によれば、演出家のサイモンは妥協をしないダメ出しを公演が始まってからも出しているようで、日々エキサイティングな現場のようだった。

なかなか客電が落ちなかった。電気系統のトラブルで公演をスタートできない。電気の量をものすごく使う舞台なだけに、恐らく初演を見た誰もが事態に納得しただろう。サイモンの焦ってどもりながら必死で説明する英語を訳す立石さん。そしてサイモンが一足先に袖に入ってしまい、場つなぎで話出す立石さん。しばしやれやれと思っていた客席はモニタに電気が通った瞬間すでに演出の手に落ちていたことを知る。「起こったことは起こったことだし、起こらなかったことはまだ起こっていないのだ。」「原因と結果。因果律」そして自分の意識のはかなさを知る。

舞台上に存在するあらゆるものに映し出された2次元と、役者の肉体が生み出す3次元の融合。それによって刺激された観客の4次元の想像の領域が、この作品「エレファント・バニッシュ」の可能性を表現する。

初演と再演を見た上で感じたのは、1年間が経過した今でも、脈々と流れる茫洋とした現実感である。この世界は現実なのか、それともどこかで組み込まれた「現実らしいもの」なのか。録画ビデオ、ライブ映像、そして生身の役者から発せられる3次元のリアリティ。これらを通して、自分自身の存在に自信が持てなくなっていた。私が見ているものの境目はどこなのか。混乱している自分がいた。
消えた巨象は、現実に今、生きているという虚像なのである。

そして、公演を見た後に、原作を再度読み返してみた。初演の後に読んだ時、この作品と原作の接点が今ひとつピンと来なかったが、再演の時にはいずれの作品にも共通する何かを感じた。それは日常の中の不確からしさでもあり、揺らぎともいえる。特に「眠り」の中にあるメトロノームのような反復感が、よくわかった。

この不確かな現実感を、実に身体訓練された役者たちがリアルに演じている。肉体から生み出される動き一つ一つが、背後に展開される映像と合体したり、あるいはイメージだったりと、観ている者の想像力をかきたてる。マイムが取り入れられている舞台というのではなく、存在そのものが舞台である。

「重要なのは統一感です」一年間にあったさまざまな出来事が、さらに混沌とした世界に形容詞をつけているようだ。私たちが不確かな世界の上にたっていて、決してその不確かさに目を向けない。みんなが目を閉じてしまうこの「統一感」が、背筋を寒くさせる作品だった。

余談
この公演のアフタートークで、テクニカルスタッフの話を聞くことができた。私はこの作品のように映像を多様する傾向が海外の作品にはあるのかを聞いた。コストの面でも映像を使うことが可能になり、こういった生の動きと映像をミックスするやり方はあるが、サイモンほど多様するのはまだまだ珍しいようである。
サイモンの使い方だけで判断するのは危険だけど、もっと映像技術が進み、ヴァーチャルな部分まで行けるとしても、最終的には生身の動きに戻るようなそんな気がした。